2006年12月17日
愚痴
先日、教育基本法の改定法案が可決されたようですが、
その前に、
「いじめた子は登校停止」
という部分は改定されましたね。
話は変わって、
365ブログの記事の中で、
「こんな嫌な人がいた」とか
「こんなマナー違反の人がいた」といった記事が時折投稿されています。
私は、そういう愚痴を記事にすること自体は
別に悪いことだとは思いません。
気になるのは、その後に寄せられるコメント。
例えば、
「そんな奴の考え方など理解できない」
「そんな奴はどこかに消えてしまえば良い」
そのコメントに含まれている心と、
「いじめた子は登校停止」に含まれる心に
通じる点があるとは思いませんか?
間違いを起こした者に対して、
それが間違いであると理解してもらうために糾弾することは
確かに必要なことかもしれません。
でも、それで、何も理解しようともしないで、
ただ、切り捨てるというのはあまり良いことだとは思えません。
確かに、それは最も手のかからない方法であったり、
ある意味では最も効率的な方法なのかもかも知れません。
私は問いたい。
「本当にそれで良いの?」
間違いを起こしたならば、それを気づかせ、
より良い方に導くことはできないのでしょうか?
私の経験では、
「人を10傷つければ、10もしくはそれ以上で自分に帰ってくる。」
「人を10助ければ、1つの助けとなって帰ってくる。しかも帰ってこないこともある。」
助けようと、導こうとすれば、
反対に逆上されることも多々あります。
それでも、私は
できる限りで、助けたい、
間違いに気づいたならば、導きたい。
人はたびたび、間違いを起こします。
それは、人が人である限り、例外はないと思います。
悪いのは「人」ではなく「行為」であり、
人は変われると信じています。
人が何かで、間違いを起こした。
そんな時に、ただ切り捨てるのではなく、
もう少し考えてみてはいかがでしょうか?
なぜ、そうしたのか?
次のために、その人の今後のために、
自分ができることはないのか?
今日の記事はそんな私の愚痴でした。。。
その前に、
「いじめた子は登校停止」
という部分は改定されましたね。
話は変わって、
365ブログの記事の中で、
「こんな嫌な人がいた」とか
「こんなマナー違反の人がいた」といった記事が時折投稿されています。
私は、そういう愚痴を記事にすること自体は
別に悪いことだとは思いません。
気になるのは、その後に寄せられるコメント。
例えば、
「そんな奴の考え方など理解できない」
「そんな奴はどこかに消えてしまえば良い」
そのコメントに含まれている心と、
「いじめた子は登校停止」に含まれる心に
通じる点があるとは思いませんか?
間違いを起こした者に対して、
それが間違いであると理解してもらうために糾弾することは
確かに必要なことかもしれません。
でも、それで、何も理解しようともしないで、
ただ、切り捨てるというのはあまり良いことだとは思えません。
確かに、それは最も手のかからない方法であったり、
ある意味では最も効率的な方法なのかもかも知れません。
私は問いたい。
「本当にそれで良いの?」
間違いを起こしたならば、それを気づかせ、
より良い方に導くことはできないのでしょうか?
私の経験では、
「人を10傷つければ、10もしくはそれ以上で自分に帰ってくる。」
「人を10助ければ、1つの助けとなって帰ってくる。しかも帰ってこないこともある。」
助けようと、導こうとすれば、
反対に逆上されることも多々あります。
それでも、私は
できる限りで、助けたい、
間違いに気づいたならば、導きたい。
人はたびたび、間違いを起こします。
それは、人が人である限り、例外はないと思います。
悪いのは「人」ではなく「行為」であり、
人は変われると信じています。
人が何かで、間違いを起こした。
そんな時に、ただ切り捨てるのではなく、
もう少し考えてみてはいかがでしょうか?
なぜ、そうしたのか?
次のために、その人の今後のために、
自分ができることはないのか?
今日の記事はそんな私の愚痴でした。。。